タピオカ・ネクスト
9/24
新しく友だちが増えて、
好きなものや格好いいものと、
嫌いなものの話をして、楽しかったです。
ばかな女を抱くことの話と、恋の話と、ねこは動作が単純でわかりやすくて愛おしい、という話と、自分の幅をひろく保つためにむずかしいものに触れることの話など。
自分の表現に熱量を傾けてる人はどんな形であれ魅力的だですね。
その人の年齢や所属を見て、私はこの人に好きとか大好きとか言っていいとか、会いたいっていつでも言っていいとか判断するの傲慢ですね。
そういうことを言うと自分が楽になった気になって
一時的にいい気分になるけど、そこで減った重たさは相手に渡ってるもの
9/26
仲良いいとしい人たち、
各々生きていて各々すこやかにあってくれたら各々それで良いんだけど、
とはいえ対面で目視確認できるとやっぱり嬉しくなりますね。
わたしがエピソードトークのネタにすべく、もらう誘いにあれもこれもやりましょう〜って安易に乗っかることに対して、「ケンコバの風俗巡り」という例え。
9/27
好きな人たちに対して、生きていてと伝えることも責任が生じるから
なかなか勇気がいるな、と思いつつ、でもやっぱり生きてだけいてほしい、と相手に言うのは最低限なような気もする。
それはもうどんな道理や理屈も飛び越えた次元にあるマナーである、というのも納得する。けどもう少し先の未来で安楽死とか個人の尊厳とかそういうことがより一般的に語られたときに、わからないなあとも思う
むやみなお悔やみやRIPなるメッセージがじわじわ自分を腐食している気がする
錯覚かもしんないけど 、それはひとしく錯覚じゃないかもしれないしね
あくまで内的・個人的な意思や感情が、表に出ることで別ものに変化するのはどうしようもなくて、ただ発信する手段や場所を持っている全ての人は自ずとそこに自覚的であってくれ〜と思います。
わたしものうのうと◯◯ちゃん好きだのありがとうだの安全な場所で無害づらして言ってばかりもいられませんね。
自戒を込めて みんな誰しもモンスターの子どもを飼っている。
メディテーション、マインドフルネス、などスピなるものの時代がきている気がするし、まあくるよねという気はする。不安だょね皆.....
私も二泊三日の抱腹絶倒マインドフルネス山籠りアンドワーケーション、withここらでいっちょ体質改善!みたいなやつに行きたいです。
23年生きてまあまあ経った身体が、
心や頭が、ここにきてどの程度変化しうるのか、ということに興味があります。
方向性や着地点の理想ありきですが....。
年々薄くなってる気はしつつも、俗物としての欲を削いでいきたい。
やはりいつ何を手放しても粛々と暮らせる人はつおいな。