側道

 

 

ものをしっかり書く場所があるのはどうなんだろうとずっと思っていて、

わたしが思ったことと、

わたしが思ったことを書いたり言ったりすることは

後者がいくらありのままで正確で明瞭であろうと、

別のことになってしまうし、異なる意味合いを含んでしまうし、

私が発するものは結果的に全て何かしらの媒体になってしまうので、

それがどうしても割り切れなくて決心できなかったけど、

(あとわけ〜女の自分語りなんて今の時代にありふれていてつまんないので)

 

そんななかでも、あらためてブログを作る理由は大体100個くらいあって、ひとつめは経年変化する考えや気持ちを後から辿って見るのはやっぱり楽しいと思った

ふたつめはわたしに関心を持つ人がいる場合に、こういう場所がある方が材料をそろえられて良いような気がすること

みっつめは最近初めて会った人に言葉が良いねと言われたので書いてもいいかななんて思ってること

わかる人だけで大丈夫で、本当は理由なんて何ひとつないです。

 

それで、ただものを書くにしても、自分の所属や立場を前提にすると誰かやどこかに影響が出そうなので、事実と詳細は抜きにして、思ったことと考えたことだけを書き留めることにします。

 

「大好き!」って書いた日は(わたしのことだ)とか(おれのことだ)と思ってほしいです。

 

とりいそぎ、近日のことをわすれないように

 

9/13 

初対面の人と会話して、その人を好きになる理由が「目が良い」でしかないことがあって、それでした。

 

言葉にしたら多分優しくて、柔軟で、同時に自分の神さまをちゃんと棲まわせていて、奥には少しだけ(少しだけ)孤独があって、とかになる気がするけど、とにかく良い目をしていて素敵だった

目見て芯食った会話を5分くらいしたら、わかることがある 気がする。

 

9/16

誰かの言葉や、そこに紐づく感触や記憶をお守りみたいに眠るときがあって、

そういうのを数えて安心したい時、安心しないとやってられない時あるね。

特定の何か一つを信じていないので、自分の思想信条は何によって形成されたんだろうってたまに考えるけど、考えきれなくて半端に終わる。

 

9/18

1伝えるだけで10理解して、表現したり行動したりする人はほんとうにすごい

仕事をする上でのコミュニケーション能力も同様だと思うので、私もちゃんと自走したい

 

9/19

自分の身体も心も自分のものでしかないので、自分の悲しみも幸せも地獄も同様に自分だけのものだな、って気づいて悲しくなった

一人でいても誰かといても本質的には生きて死ぬまで孤独なことを、何歳になってもなかなか受け容れられないの、私だけか?みんなどうなんだろう。100日くらいは平気に笑って暮らすんだけど、101日めに急に気づいて悲しくなる。

今日も明日もすこやかに暮らせることは奇跡的だなと思った

 

9/20

心理テストなどで「あなたは友人の相談にどう乗るタイプ?」という趣旨の問いがあると思うんですが 往往にして二択は

A)情緒的にサポートする。共感する。とにかく聞いてあげる。

B)論理的に助言する。どのようにすべきか、解決・改善策を考え、伝える。

で、

もちろん状況や相手によって違うぢゃ〜ん!と思いつつ、多分、前提として「わたしはあなたを大事に(したいと)思っていて、優しくするに際してその方策は何がいいかな?わたしはあなたに何をしてあげられるかな?」というコミュニケーションの過程を飛ばさずに踏んでいれば、しょうみAとBの判断それ自体によって大失敗することはないような気はするんだけど、

そういう気はしつつも、実生活でそれをただしく実行できるかというと別の話なのでむずかしいね。

余裕がないとき、視野が狭くなるとき、一歩振り返ったところにあるABの選択ミスと思ってしまいがちだけど、その前の地点で普段から会話して、伝えようとして、分かろうとしているのか、というところから問うていかないといけませんね。

 

もしかしてもうすでにすごく心が遠いところにある?のでは?って錯覚するとき、ほんとうに怖いね。気をつけます。

 

 

 

帰省したいね。

家族がいるという意味で実家は最高、それ以外は何も最高じゃないです。

米・日本海・草しかない居宅・寂れたデイリー・17時に無人になる最寄り・背丈ほど積もる雪・車高の低い車に乗る鳶職・窓ガラスを破られて引っ越した一家

ぽや・しみ